「未来のミライ」で感じた違和感についての考察


先日, 細田守監督の「未来のミライ」を見た.
感想を端的に述べると, 「よく分からない作品」だった. 作品のテーマは決して複雑な訳ではない.
なぜそう感じるに至ったか整理しようと思う.

作品を未鑑賞である場合, 作品の面白さを大きく損なう可能性が高いので, 強くブラウザバックを勧める.

監督が描きたかったものと受け止め側の乖離

結局のところ, 監督が描きたかったものと, 視聴者 (私)が受け止めたものの乖離が大きかったのだと思う.
端的に記すと以下の4点なのだと思う.

  • 主題の捉え方の乖離
  • メインプロットより主張の激しいサブプロット
  • 時間軸の欠如
  • ファンタジー要素は果たして必要だったのか

監督は「愛」を焦点にしたかった?

新作『未来のミライ』は長男の“ある行動”から生まれた(ゲスト:細田守)【前編】で, 監督は愛という単語を多く使って作品を紹介している.

細田:今、うちの子どもが5歳と2歳なんですけど、これを発想したときは3歳と0歳だったんです。映画と同じように下の子が生まれたときに上の子が荒れちゃって。僕ら親は赤ちゃんを何とかするのにいっぱいいっぱいで、上の子は放っておかれちゃうじゃないですか。

そうすると、自分は捨てられたと思って、床に寝転がって大暴れ、ワンワン泣いて。そういう姿を見たときに思ったのは、愛を奪われた人間というのはこんなにみっともなく、泣き叫ぶものなんだなということ。自分の子どもを見ながら思っちゃったんですけど、でも考えてみたら、僕らも若いときに異性にフラれたりすると、床を転げまわりたくなるほど悲しかったけど、大人だからしないじゃないですか(笑)。

確かに子供の純粋な行動によってのみ描かれるものはあるのだろう.
しかし, 私が感じたこの作品の主題は「くんちゃん(主人公)が兄になるまでの成長」だった.
作品序盤の「お兄ちゃんじゃない」と叫ぶシーンから、終盤の「ミライちゃんのお兄ちゃん」であると認めるシーンまでの成長を描いた物語である.
そこにあるのは愛ではなく, 自己の成長である.

愛が主題であるのであれば, 愛を失うシーンを演出する為に, 愛を一心に受けるシーンを描くべきではないのだろうか.
冒頭にスタッフロールとともに過去の話を流している場合ではない.
両親に構ってもらえないシーン (監督の言葉を借りると, 愛を奪われたシーン) は多く描かれていたが, 成長する前の姿を描いているようにしか捉えられなかった.

同時に描かれる親の成長は子供の成長よりも明瞭に描かれる

作品の全編を通じて, 両親の成長がくんちゃんの成長に合わせる形で描かれている.
主題が捉えられなかった時点で定かではないが, これがサブプロットなのだろう.
父親は育児ができるようになり, 母親は幼少期できなかったことが結婚や子供を産んだ期にできるようになる点が象徴的だ.

これらは時間配分的にも, くんちゃんの成長と大差ない時間を割いて描かれている.
冒頭のくんちゃんが愛を失ったシーンでは育児のできない父親が描かれ, 母親の幼少期にタイムスリップ(?)するシーンは, くんちゃんの成長にも一躍買うものの母親の成長する前の姿を描く上でも重要な役割を持つ.
くんちゃんが自転車が乗れるようになるシーンでは, 父親が抱いてもミライちゃんは泣かなくなるという形で成長が描かれる.

視聴者(私)の視点が両親側に近いので, 両親の内面の成長は分かるが, 自転車が乗れるようになることによる内面の成長は果たして何だったのだろうか.

赤ちゃんがバナナを食べるようになるまでに, どれくらいの時間が必要なのか

成長について理解を妨げる要因であると感じた点がもう一つある. 時間軸だ.
終盤でミライちゃんがバナナを食べていたように記憶しているが, 赤ちゃんがバナナを食べれるようになる年齢が育児をしたことがないので分からない.
そして, くんちゃんの年齢は幼稚園(恐らく)に通っているシーンから, 3〜5歳であることが薄っすらと感じ取れるが, 保育園であれば2歳かもしれない.

何故これが大事だと思うのかというと, 幼少期の成長は著しく, 例えば2歳で「このズボンは嫌だ」と叫ぶのと5歳で叫ぶのとでは感じ方がまるで違うからだ.
くんちゃんの声は小学生程度の年齢の声で演じられ, ハチゲーム (未来のミライちゃんが初めて登場するシーン) では性的な興奮に近しいものが描かれる一方で, 生まれたばかりのミライちゃんを殴りつけるのである.
終始何歳児なのか分からない状態で鑑賞していた.

果たして未来のミライちゃんは, 本当に未来の存在だったのか

作中では, くんちゃんの成長のキッカケとなるシーンがファンタジックな世界で描かれる.
擬人化であり, 過去の世界であり, 未来の世界であり, 現実世界と空想世界が混ざった世界である.

その世界が何だったのか作中で描かれることはない.
タイムスリップだけであれば, 未来のミライちゃんは未来からやってきた存在だと結論づけるのだが, 犬が人間になり, 時計が喋ることによって不確定な存在になったと言える.

未来のミライちゃんは, 果たして未来の存在だったのだろうか. 空想の存在だったのではないのだろうか.
ここが不明瞭なことによって, 終盤のシーンの説得力が大きく損なわれていたように感じた.


以上, 私にとってこの作品が「分からない」物であった理由について考えてみた.


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