天気の子 (感想)
天気の子が上映開始され、早速世界最速上映 (新宿) と立川シネマシティで計2回見てきましたので感想を書こうと思う。
感想には多分にネタバレを含みますので、未視聴の方はご注意ください。
描きたかった内容を果たして描けているのか
50行ぐらい感想を描き殴り、私が納得できなかったシナリオ上のあれこれの原因が分かった気がして、こうして書き直している。
物語を解釈するほど、物語の性質は私が好きな作品と近いのである。鑑賞時の私は全くそうは思わなかったにも関わらずだ。
つまるところ、逆算的に考えられる描かれるべき物と、感じた物が異なっていたのではないだろうかと。
ひたむきな愛の物語。
物語の主軸は「世界が壊れたとしても君を選ぶ」という、幾度となく描かれたテーマである。
二人の心が距離や時間といった障害によって離れていくーーそんな作品を手がけてきた新海監督がハッピーエンドに舵を切り、このテーマに行き着くのは得心が行く。
「雲のむこう、約束の場所」が近いテーマでもあり、新海監督の作品を追い続けていたファンにとって、これ自体は違和感はないのではないだろうか。
しかしながら、果たして「ひたむきな愛の物語」だったのだろうか。少なくとも鑑賞時の私はそう感じていなかった。
帆高のバックボーンが描かれていないが為に、行動原理が分からなかったというのもある。しかし振り返ってみると、そうではないように思えてくる。
帆高は家出をして東京に出てきますが、その家出の理由を劇中では明確に語っていません。トラウマでキャラクターが駆動される物語にするのはやめようと思ったんです。映画の中で過去がフラッシュバックして、こういう理由だからこうなんだっていう描き方は今作ではしたくないな、と。内省する話ではなく、憧れのまま走り始め、そのままずっと場所まで駆け抜けていくような少年少女を描きたかったんです。
劇場パンフレットにおいて新海監督はこのように述べている。彼等は若さゆえの愚直さで走っていたのだろう。しかし、果たしてそこに愛はあったのだろうか。
陽菜の家に警察が訪れ、須賀に家に帰れと言われた後、帆高は陽菜に一緒に逃げようと告げる。自分の居場所を失いたくない一心で「一緒に逃げよう」と。生きていく糧の当てがないまま。
そこに愛はない。あるのはエゴだけである。
若さ故の衝動的な行動と言えば聞こえが良いが、そこには一瞬でも考えられた形跡がない。
「祖父母の家のある田舎まで逃げる」「人里離れた場所に隠れ住む」若いなりの逃避行は過去様々な作品で描かれてきたが、帆高は「危険物所持の疑いが掛けられたお尋ね者」の自覚もなく、ただ行き当たりばったりに夜の街にそのまま繰り出していく。
考えなしで生きていた少年が失ってようやく気づく贖罪の物語。私にはそう思えてならなかった。
その恋は真実か。妄想か。
実のところ私は、帆高が抱いた陽菜への恋心は周りに植えつけられた物であり、本人は失う(陽菜が消える)まで自分の物へと昇華できていなかったのではないかと感じている。あくまでも彼が欲したのは、居場所だと。
「君の名は。」では、瀧と三葉が互いの恋に気づくシーンが丁寧に描かれていた。奥寺先輩とのデートから始まり、二人の繋がりが切れるまでの一連のシーンである。(正確には三葉視点での祭りの日前日も含まれるが)
三葉が流した涙が瀧の涙へとリンクして始まるこのシーンは、心にじんわりと染み込んでいくかのように、劇伴「デート」にのせて描かれる。そしてその後「三葉のテーマ」「デート2」と同じメロディをアレンジしつつ追い打ちをかける。
一方で「天気の子」において帆高が陽菜への恋に自覚するシーンはあったのだろうか。
凪に「帆高、姉ちゃんのこと好きだろ」と言われ自覚したに過ぎないのではないだろうか。いや、抱いている感情に恋というレッテルを貼られたにすぎないのではないだろうか。
友情出演した三葉もここでは逆効果に働いたように思う。貰って嬉しいものなのか尋ねる帆高への応答は、単なるMOBがするよりも意味を持たせてしまっていた。瀧も同じく、誕生日のプレゼントを渡す関係であるというレッテルを貼る。彼等が関わることで嫌が応にも恋仲を彷彿とさせるのである。
今思うと、「君の名は。」のユキノ先生友情出演は秀逸だったと言える。「言の葉の庭」を見ていない視聴者よりも鮮烈に「誰そ彼」(黄昏)というキーワードを植えつけられた。
恋が不在の恋愛物語。
つまるところ、私が本作を評価できなかった原点は、恋不在の恋愛物語であることなんだと思う。
帆高は陽菜を失ってから、自分が一番年上にも関わらずエゴで動いていたこと、そして周りが見えていないことに気がつく。恋に気づく。自分の不甲斐なさを後悔し、贖罪をするかのごとく駆ける。それで「自分のために願って」「僕らは大丈夫」というのは、どこかずれているように感じるのだ。
実際に監督が描きたかったものが、恋愛物語なのか贖罪の物語なのかは分からない。いや、その両方なのかもしれないし、それ以外なのかもしれない。
ただ私は、確固たる想いを淡々と積み重ねながら、大きな障害がそれを壊す。その鮮烈さに恋い焦がれたし、「君の名は。」では確固たる想いはそのままに障害を乗り越える物語へと昇華し、その積み上げ方の美しさに衝撃を覚えたのだ。
それらが全て泡沫になったかのようで、目を瞑りたい。それが正直な想いだ。
折角なので、もう少しだけ掘り下げよう。
錯綜するサブプロット
本作をより分かりづらくしたのは、各々のキャラクターの選択がサブプロットとしての形を持ちながら、深く描かれなかった為ではないかと思う。それがメインプロットの価値を下げ、感情移入の妨げになってしまった。そのいくつかを紹介しようと思う。
彼等は果たして選択をしたのか
小説版では多少明確に示されているが、本作の終盤は各キャラクターがそれぞれの想いから帆高を助ける。
須賀は娘と再び暮らせることを優先して他を切り捨てるが、何を捨ててでも失いたくないと思った過去の自分を思い出し。
夏美は散々つまらない人と言いながら、逃げて何も行動できない自分の殻を脱ぎ捨てたくて。(これは私の解釈が多分に含まれる)
しかしながら、それぞれのストーリーラインは序破急が明確には描かれない。須賀ですら、過去の自分を思い出しながらも「ただ、もう一度あの人に会いたいんだ」という帆高の叫びを聞くまで葛藤しているのだ。映像の尺の中で彼等の行動を咀嚼するだけの情報が与えれているとは到底思えない。
もしかすると、誰もが迷っている中で何となく選んでいるのかもしれない。帆高でさえも。結局のところ、帆高も陽菜を救うことで東京が海に沈むなんてことは想像していなかったと思うのだ。
考えるな、感じろ。つまりはそういうことなのかもしれないが、それにしては思わせぶりな台詞が多かったように思う。
「つまんない大人になりそう」夏美が就活に出かける前に発した台詞が今でもわだかまりとなって残っている。
何も描かれないまま解決される、陽菜と凪の生活
陽菜を主軸としたサブプロットは至ってシンプルで、親を亡くした子供二人がなんとか離れ離れにならずに生きていくーーそんな話だ。ただ、それも陳腐な結論を持って描かれる。
物語終盤、田端駅の坂道ーーつまり、陽菜が引っ越していないことを暗に示しているーーで二人は再開を果たす。家を捨ててまで逃げようとする彼等がまるで、実はそこまで追い詰められてはいなかったかのようである。
「僕たちが変えた」いや、そんなことはない。ただ、何も考えずに力を使った代償に東京が海に沈んだだけで、他は何も変わっていないじゃないか。私はそう思う。
最後に
正直、企業タイアップが作品としての価値を下げているとか、まだまだ思ったことはあるが一旦ここで筆を置こうと思う。
「天気の子」のPVを見たとき、「星を追う子供」と「君の名は。」が融合したかのような感覚があり、期待で胸を膨らませた。感じていたものとは異なっていたが、多数に迎合するのではなく、監督の描きたいものを感じた点は素直に歓迎している。
ただ、そこに到るまでがどこか雑多で、その雑多さが次回作ではなくなることを、強く願っている。
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